軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

重荷を捨てれば軽くなる道理

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 久能山東照宮のサイトに掲げられている徳川家康公の遺訓です。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思えよ。勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより優れリ。」

 こんな有名な言葉を知らない人はまずいませんが、あらためて勝利者家康らしい言葉であります。というか、完璧ですね。成功の極意でしょう。文句なしです。大絶賛されるのも当然です。経験論であり、忠告であり、人生訓であります。

 父が子に残す言葉としても完全であります。たいそう臍が曲がっている私でも、とても耳が痛い親父の言葉です。「金持ち父さん」ならではの遺言であります。「貧乏父さん」には決して吐けない言葉かもしれません。

 ですが、お言葉を返すようですが、「びんぼう父さん」の実子としては、いささか腑に落ちないのです。完璧すぎて、これは実践できないであろうと決めつけてしまうのであります。くやしくなるぐらい完璧ですが、仏の教えも入っていますが、論語にもありそうで心の鏡にしたいものですが、わたしは死ぬまで実践できないであろうと、変な確信があります。

 あまりにも重いのです。まあ徳川家の遺訓でありますから、われわれ下々がノタウチマワルことはないのですが、私は重荷を簡単に捨てることをモットーとしておりますので、無責任な言い方ですが、重荷を捨てる努力というのもあるのではないかと反論したくなるのです。すみませんが、これは私の個人的な意見ですから、目くじら立てないでくださいね。

 重荷というのは、立場や持ち場、名誉や地位、財産や見解などのことです。自分を重くしている、背中にしょって、腹に持って、脇に抱えている荷物。これを御荷物といいますが、これが不自由の原因です。不自由を常と思うことは大事ですが、自由になる努力という方法もあるのだと言いたいわけです。

 簡単には捨てられない荷物。じつは私なにを隠そう、今日は引っ越しの荷物を運ぶのであります。昨日荷物を整理していて、これは自分では捨てられないなと思ったものが一杯あったのです。軽トラに満載の荷物。ほとんどゴミでした。分別方法は、「大事なもの」と「思い出の品」と「ゴミ」なのですが、人様からすればほとんど「ゴミ」でしょう。

 これをわざわざ4時間以上もかけて師寮寺まで運ぶのであります。情けない。積み込みは今回は一人でしますが、寺への運び入れは友に手伝っていただきます。申し訳ない気分でいっぱいです。なぜなら、ついこないだ友に運んで頂いたものだからです。恥ずかしいたらありゃしない。

 家康様の人生訓を実践できていたら、こんな無様なことはなかったでしょう。耐えて堪えて生きていくこともできたでしょう。ところが、わが信念は、「軽く生きる」にあります。軽トラに乗って軽く生きていきたいのです。思う存分自由でありたい。完全自由、独立自立を目指しているのです。略して「全立」(ぜんりゅう)であります。かんたんに重荷を捨てれば軽くなることを自分で実証してみたいのでありました。

 ずいぶん前の動画らしいが、理屈抜きに笑ってしまいました。これは余りにも軽すぎるのですが、プロ顔負けでしょう。陰での努力が光っています。

父の日に娘と孫娘からのプレゼントの中身は?

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 昨日のニュースは「母親>父親」だった。民間の研究所(博報堂生活研究所)のアンケートによると小学生は父親よりも母親の方を尊敬しているとのこと。当然であろう。素直な気持ちであろうし、こんなアンケートが一体何になるのであろうか。親子夫婦兄弟姉妹、いったい誰が好き?って聞いているようなものだ。

 昨日仕事から昼に戻ると、宅配の不在連絡票が郵便受けにあった。故郷の娘からの父の日の贈り物だった。中身は娘親子の手紙と、「とろろ昆布」そして「恐竜手拭いタオル」であった。それを涙ながらに開いているところに件のニュースが耳に飛び込んできたのだ。父なんか忘れてくれたらいいのに、大事に思ってくれている娘たちの気持ちが短いメッセージにいっぱい詰まっていた。

 親子の情について考えた。出家の身とはいえ、われとて人の親である。妻と別れ、子どもたちと離れ離れになって、ほとんど連絡もしないのだが、好き勝手に生きているのだが、今や流浪の身であるのだが、こうした贈り物を受け取ったり、LINEメールをもらったりしたときに、ふと淋しさを感じるときがある。昨日の夜がそうであった。

 阪神タイガースのトラが惜敗を喫し、男はつらいよの寅さんの映画のシーンに笑い、軽トラに載せる坐禅堂の段取りを行い、さまざまな思いが重なって「お酒」を呑んでいるこの虎は、今「おんな城主直虎」を観ている。(昨日の夜のこと)なんとタイトルが「さよならだけが人生か?」であった。

 さよならだけが人生だ。武士道でなくとも人生は「死ぬことと見つけたり」である。たった一度の人生ではないか。思う存分生きることが死ぬことなのだ。生きながら自分を殺して生きることはないのである。世間でも死んだ気になってやるというではないか。みんな必死のパッチなのだ。

 娘は「お父さん、元気にしていますか?」から始まり、孫娘は「げんきでね」で終わっていた短い手紙をなんども繰り返し読んだ。彼女たちからの贈り物は、元気まるごとであったし、愛情そのものであった。

演歌「別れの朝」はなんといっても藤圭子さんが一番だろう。原曲やロックもいいけれど、この歳になると、しみるのは演歌だ。いや、この唄は演歌が似合う。

 

やはり窓は設けるべきか坐禅堂

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 坐禅堂(僧堂)は暗からず明るからずが基本なのですが、窓というものは断熱や遮音上すこぶる効率が悪いもので、これも最初から決定しておかないと後からでは段取りが悪くてしょうがありません。そこで小さな嵌め殺し窓を唯一の採光用の窓とすることにしました。換気は丸型の換気扇かレジスターガラリを考えています。それで、その窓の位置なのですが、防犯上運転席側の妻面の上部ですと、軽トラの運転席のトップより上に出ますので、そこが良いかと。その反対側つまり入り口のドアに明かり窓とも考えたのですが、なんか覗かれそうでこれはボツにせざるを得ません。窓というものは意外と手間がかかる上に、予算超過の原因になります。どだい寝るためだけぐらいに考えていましたが、坐禅の時やものを書いたり読んだりするのに、全くの明かりなしではというのが今回の問題です。これも後から考えていたのでは、手待ちになってしまいます。

 今日はこの問題を一日掛けてクリアーしておきたいと思います。寝ても覚めても何していても、ふと手を止めた時に考える、今日のテーマでありました。こんなときには友の智恵を借りるのが一番です。う~ん、悩ましき窓のやつめ、Windowよ。窓だけに惑わせてくれよるわい。

 

全然テーマと関係ありませんが、サユリストの気持ちがわかりました。嗚呼かわいい。

それにしても浪花千栄子さん、名脇役名演技でした。流石です。

外装に使う断熱サイディング

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 写真に撮るのに逆さまに置いてしまったため、よく見ると上下が逆で下地の合板に止めるビス穴が下になっているが、実際にはこのビス穴の方が上になる。この外壁材は友の寄進によるもので誠に有り難い限りである。作業場も提供して頂いており恐縮この上ない。この外壁材をこうして写真にとると軽トラのボディの色と馴染んでいる。まったく違和感がない。まるで坐禅堂の屋根外壁になるために生れてきたのかもしれない。これを外壁材の成仏と呼ぼう。

 当初、縦張りにするか横張りにするか大いに考えた。素材を矯めつ眇めつして、水切りの具合や雨水、風雨、降雪、積雪あるいは見た目などなど、大いに悩ませてくれたものだ。その結果はやはり横張りに適しているとの結論を得た。そうと決まれば話は速い。あとはその繋部分の雨仕舞(あまじまい)をどうするかだ。今は色々と水切り材があるので、これもホームセンターに行って選ぼうと思う。

 この外壁材の模様はいわゆるレンガ目地である。レンガを平らに積んでいくときの模様なのだが、洋風ではないかと思われるかもしれないが、坐禅堂が和風でなければならないというのは固定観念である。まずこの観念を捨てなければならないことに気がついた。いわゆる「らしくない」という固定観念をキッパリ捨てて、軽トラの荷台の上でも坐禅ができることを喜びたい。要するに空間を利用するのは人間なのだ。

 人間以外にも、相棒の存在は検討に値する。マンションやアパートでペット禁止という場合が多い。旅と言っても決して急ぐ旅ではないのだから、このモバイルハウスで猫を飼うことだってできる。だれも文句言えないだろう。猫が車に酔わないだろうかという心配、トイレの匂いはどうするか、こんな心配をするなら飼わないことだ。ただいま深く検討中。この結論は、猫との出会いによって決まるであろう。

 さてこの断熱材付きサイディングボードは軽い。断然かるいのである。切断も普通のノコギリでOK。切り口は木か水切り鉄板で押さえる。シーリングすれば万全である。45°の屋根は、このサイディングボードが屋根材にも使えるという利点がある。普通の規模の屋根なら逆漏れの心配があるが、この規模で走行することを考えれば、逆漏れの心配は無用である。屋根の部分だけ、継ぎ目の部分にシーリングすれば完璧であろう。

 もう一度写真を見てみた。完成イメージを頭に描きながら、この坐禅堂を見て、だれが坐禅堂だと気づくだろうか、誰も気づかないでほしい、と素直に思った。パフォーマンスが目的では無いからだ。わたしにとって、観音様と共に旅をする、名づけて「坐禅旅行」なのだ。

 

 

ツーバイフォー用の金具を買うのだが問題は?

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 上の写真のような単純でしかも確実なツー・バイ・フォー(2×4)用の金具が比較的安く手に入る。コメリというホームセンターのサイト(コメリドットコム)で買えるのだが、やはり現物を見て買いたいものだ。ところが小さな店には揃っていないところが多い。この金具以外にも色々あって、必要にして十分の金具を用意しておきたい。

 普通の建物と違ってモバイルハウスには常時振動と衝撃がある。このため、応力集中箇所すなわち弱い部分にこの影響が出る。かんたんにいうと壊れる、緩むということだ。それでビスだけで止めると、ビスが簡単に剪断されてしまうのだ。これを補うのが金具なのである。むろん金具をビスで木材に止めるのだから、そのビスはどうもないのか?という友からのツッコミが来そうだが、じつは何の心配もない。一本だけのビスはまことに弱いのだが、複数となるととたんに強くなる。ドアの丁番しかりネジ止めフックしかりである。金具は論より証拠、取り付けてみるとその強さが手に取るようにわかる。これは誰もが実感していることであるから言うまでもないが、ここで学んだのは「2×4用の金具」がちゃんと市販されているという現実である。

 時代は進んだもので、今やありとあらゆるサイトがある。とりわけ「車中泊」専用サイトがあるのにはビックリした。「オンリースタイル」という車中泊専門店には恐れ入った。見ているだけで早く旅に出たくなるのだ。旅とグルメと猫と犬。車中泊であればホテル代が浮くので、B級やC級グルメだけでなく、賞味期限切れすれすれ格安食品ならずとも、本物のグルメもたまには味わえるというものだ。

 話を元に戻すと、次の段階はいよいよフレームの組み立てである。このフレームがしっかりしたものでないとコンパネ(構造用合板)を張る段階でひしゃげて工事中の事故につながる。なにしろ軽トラの荷台に載せて組み立てるので、足場はせいぜい脚立程度なのだが、足をかけるところがないので比較的に危険である。コンパネを張ってしまったら何の問題もないのだが、張るまでがこのフレーム(枠組)に大きく依存するのだ。もちろん前述の通り振動・衝撃を考慮すると、このフレームの仕口にかかる応力は凄まじいものがある。

 枠組みの最上部、いわゆる合掌の拝み部分が完全に直角であることも重要である。これについての対策は比較的に簡単だ。コンパネを正方形に切って45°に傾けて、これに合せて運転席側の妻部分の壁(バックから見て一番奥)を張る。これはコンパネをフレームに張ってから、つなぎ目に2×4材を取り付ければよい。これはその時点で写真で説明する。文章では何のことやらサッパリわからないだろうから。

 問題は実は金具ではない。今さら言う話ではないが、ここだけの話なのだが、理論上は完璧なのだが、未だ自分で現実に作っていないので、この構造で果たして頑丈なのかという一抹の不安である。まさかこれに筋交いや梁を入れるわけにはいかない。自分でもおかしくてしょうがない笑い話のようだが、何度もいうが、理論は完璧だが実際はドウナノか?不安でしょうがない。(笑笑)セルフビルドの生みの苦しみでもある。(クックック)

 

坐禅堂の屋台骨

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この切断カッターは精密で2×4材をピタッと22、5度で切ってのける優れものです。

あまりにも簡単に切れてしまうので拍子抜けしてしまうほどです。

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これも精密な角度定規で墨というか鉛筆で切る位置にしるしを付けてから切るのですが、ドンピシャでありました。

もちろん差し金でも確かめます。タンジェントを計算して一尺に対する寸目の値を直角三角形の底辺と高さを木材の縁に合わせて角度を出します。

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あっという間に材料の加工が完成しました。やはり仕事は道具と知恵ですね。これを「腕」と人は呼びますが、何のことはない。友の協力と全面的な応援あればこそです。

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こうして坐禅堂のキモとなる屋台骨は完成したのでありました。仮に組み合わせてみました所、ベリーグッド。申し分ありません。人々に支えられている。特に無二の親友に支えられている実感を味わいました。

ああしまった。昨日の初日のお祝いの料理、写しておけばよかった。旅の夢を散々に語り笑っておりましたが、かたや阪神タイガースは敗れ、頼みの綱の広島はサヨナラで勝ってしまったのでありました。残念。

観音像は秘仏とすることに決定

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 部屋の片隅にお祀りしている観音像を、この度の軽トラ坐禅堂造営に当りお祀りすることは既に決定しておりましたが、せっかく桧でプロの大工さんに頼んでこしらえて頂いたことでもあり、師寮寺の観音堂の観音像も秘仏で確か20年に一度の御開帳でありましたので、これに倣って「秘仏」とすることに決定いたします。

 何ゆえかと思いましたら、観世音菩薩、観自在菩薩という菩薩様は、三十三相をもって示現されるからであります。すなわち観音像が観音様ではないのです。ですから、お祀りはしても、そのお姿は人々の心の中にしか存在されないわけです。誰もが観音様と思うことはできても、現実に思えないのが実際のところであります。

 色々と想像をしていただこう。いや、想像してほしくないのであります。ここらへんは容易にわかっていただけない部分であろうと思いますが、なにしろこのブログのように公開して後悔することもあります。(笑笑)笑い事じゃないのですが、笑うしかありません。

 故郷にどんな顔して帰ればいいのかしらん。などと一瞬思ったりしましたが、この秘仏に決定した観音様のお顔を今一度拝顔して、一目惚れであります。全てを包み込む優しさ、慈しみを象徴したお姿であることを改めて強く感じました。わたしのマドンナですな。とある日の「男はつらいよの寅さん」のように、何食わぬ顔をして一言。「ただいま」。

 今日は、材料を友の家の作業場に運び入れます。着々と「ご造営」は進行しております。全ての段取りは整いました。もう後戻りすることはありません。

文字通りの観音開き

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 これもミニハウスで画像検索した画像を引用させていただきました。出入り口は後ろだけなので、画像のように物置にはできませんが、日頃は片側の扉だけ開いて出入りし、海とか山とか湖とか河に向って、この両扉、いわゆる観音開きを全開にして、外に向って坐ることをイメージしました。

 現実ばかり見ていると、こころが滅入りますが、たまにはこうやって夢を語り、夢を思うことも必要です。明るく明るく、とにかく明るく軽く生きていく。

 車上ぐらしというと惨めったらしいイメージが有りましたが、何の何の、それは楽しいことではありませんか。ゆっくり眠りたいと思ったらどこでも寝ることが出来ます。たまにはホテルに泊まるのもいいし、師の寺や全国の友達のところで休ませていただくこともありましょう。何の心配もありません。仮眠のできる「道の駅」のリストもネットで公開されています。

 坐禅堂の奥には、観音様をお祀りします。これぞ正しく観音開き。御開帳ですよ。意味付けすることもないのですが、この観音開き、よく見ると翼を広げているように見えてきました。この大空に~翼をひろげ~♪♪♪。楽しい限りであります。

 

断熱外壁材を頂くことにした

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福井に戻って友の家に泊めて頂いた。

玄関先に広がる漁港に潮風を感じながら、ここも本当に良きところであると思った。

日本全国、悪しき所なぞないのだ。山あり谷あり海あり川あり。様々な土地にて、様々な人々と出会い、そして別れる。

友から、大変軽い「外断熱用外壁材」を頂けることになった。有難いことだ。外壁は構造用合板に、ペンキを塗るぐらいにしか考えていなかったので、大いに助かる。

肝心の軽トラだが、今乗っているのとは別に中古車を購入することにした。馴染みの自動車屋さんの会長に頼んでおいた。

今朝の気分は「明けてぞ今朝は別れ行く」でした。

様々な車集いし道の駅

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電気自動車の自動給電所?が何気に普及してるんですね。

これから先、軽トラが電気自動車になったり、自動運転の時代になって行くんでしょうな、きっと。


今日のこのブログをまた目を皿のようにしてチェックしている人がいると聞いて、思わず笑ってしまいました。どこまで姑息なんでしょうか?私は、何も失うものはありませんし、自分から人を貶めようとか、うまく利用しようとか、人として最低なことを考えたことはありません。もちろん人間ですから喜怒哀楽はあります。我慢するときには、痩せ我慢かもしれませんが、我慢もします。相談もしますし、意見を言うべきときには、堂々と所見を述べます。報告や連絡に値しないと自ら判断したときには、余計なことは申しません。


当たり前です。道の駅に様々な車が集まって休憩したり買い物したりしているように、人には其々の人生があっていいんですよ。それをあの車はダサいとか、汚いとか、カッコイイだとか、適当に言いふらしているのは、まあどうでもいいことですが、車に傷つけたり、火を付けたら犯罪ですよと忠告しておきます。


ブログという日記は個人的な、その時々における「おしゃべり」に過ぎません。それをご丁寧に印刷して、こうだとか、ああだとか、ネットの上でコメント入れるぐらいならともかくも、他の人に印刷したものを開陳して影で批判しようものなら、人格攻撃みたいなもので、立派な信用毀損あるいは名誉毀損であります。刑事上の犯罪であり民事上の損害賠償責任を追及されるのですよ。こんなことは世間の常識ですから敢えて言いたくもありませんが、何も知らないようなので、老婆心ながらご忠告申し上げます。


問題となった当ブログの記事は、志を持って生きれば、このブログのテーマである軽トラに小屋でも載せて生きていくことが出来るということ、自立ということを教え伝えたいがために書いた私の日記に過ぎません。あの記事によって損害を生じた人がいるのなら、堂々と直接私に言いに来ればいいのです。電話番号まで載せてあったはずです。


余計な波紋を及ぼさないため、問題の記事は削除しましたが、思想良心の自由というのは、この国で認められているのですよ。人を名指しで誹謗中傷したのならともかく、いい加減にしてもらいたいものです。


そのことによって、私の大事な人々の貴重な時間を奪い、ご迷惑とご心痛をかけていることが一番悔しいことです。自分は平気ですが、私を心から心配してくれている人々に対して余りにも申し訳ないので、少しだけ釈明に及びました。


いい加減にして下さい。

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