軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

近未来における望ましい「お寺」の在り方

 江戸時代の檀家(寺檀)制度は、

江戸幕府の民衆支配制度であったことから

明治政府はこれを廃仏毀釈によって解体しようと試みたが

民衆に根付いた宗派帰属意識や先祖供養の慣習は

現在に至るまでもその根を強くおろしている。

 

 この檀家制度が今日までよく保たれたのは

こうした事由以外に、勤勉な檀信徒と清貧な住職僧侶の

相互信頼関係が成り立っていたことに依るところ大であろう。

 

 ところが、ここに来てようやく

檀家制度が崩れ始めようとしている。

否、今までよくもったものだと感心せざるを得ない。

その主な原因は言うまでもない。

時代の流れといえばそれまでかもしれないが、それ以上に

檀信徒と寺院の関係性の希薄にある。

 

 では「お寺」は必要ないのか?というと

まだそこまでは行っていない。

なぜなら、そこに境内地や寺院建物があるからである。

では、老朽化していく建物を維持するのはともかく

たとえば、いざ「建て直す」となれば

果たしてどれだけの檀信徒が協力できるであろうか。

 

 …と、ありきたりの情勢をここに書いても

誰も何の興味も示さないであろう。

書いている自分がツマラナイからだ。

 

 今から私たちがやろうとしていることは、

既存の伝統仏教の手法とは全く違うやり方だ。

今流行のお坊さん派遣でもサラサラない。

どだい仏教であれ他の宗教であれ

押し付けられて、

いったい誰が好ましいと思うであろうか?

 

 宗教団体というのは

押し付けがましいのである。

ご先祖さんを人質にされているような、

歴史的建造物・文化財を見世物にしているような、

とまでは流石に言わないが

人々の救済ということを

本気で考えているのであろうか?

 

 今朝、友から

夏休みに入って給食がない状況で

食べ盛りの子供が

一日にアイスクリーム一本しか食べてないという話を聴いて

泣くに泣けなかった。

 

 怒りが先に立ってしまう。

贅沢三昧で、高級車に乗って、偉そうにしている誰かさんは

本当に「〇〇」しているのであろうか?

 

 人のことはどうでもいい。

近い将来に

本来の「お寺」の活動が

どういうものであるかを表明したい。

 

 基本、毎日お寺にいること。

どこかに勤めにいかなければならない状況は理解できるが

住職というのは住(とどま)り護持する役職である。

本来は住持職なのだ。

住んでいない、

いつも居ないようでは、

……

問題外。

 

そこから何だってできる。

人が集まるお寺は作れる。

 

やるか、やらないか、だけである。

 

 

 

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