軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

林棲(りんせい)のすすめ

 これだけネットが普及してくると山林部でも場所によっては十分なネット環境が得られる。わざわざ引込線などの工事を行わなくても、端末一つでつながるのだ。だいたい月に三千円程度で、高速ブロードバンドでPCが使えるし、スマホなどのモバイルも使える。電気と水道だけは引き込みした方が安くあがるが、その他は林の中で十分生活できることがハッキリした。

 

 人生は旅修行であると思っているので、どこに住むのも一緒だと思っていたが、やはり環境は大事な要素である。こればかりは人それぞれだから、あまり余計なことは言いたくないが、俺はやはり都会の佇まいや集落地域には馴染めない。そう自分で思ったのは、この一年、様々なことを体験したからである。もういいでしょうと水戸黄門の印籠よろしく引導を渡されたようなものである。いや引導を自分で渡した。引き際が肝心なのである。旅の旅たる所以であり、さよならだけが人生だ。

 

 インドの古い四住期(アーシュラマ)という概念で、林棲期というのがある。俺の場合はその次の遊行期とごっちゃになったようなものだが、人生の締めくくりの期間である。平たく言えば好きな所で一人住んで修行するというものだ。人恋しければいつでも誰とでも話せるし、山奥で荒行しようなどいうことではさらさらない。したいことをする。ただそれだけである。そのための環境は自分で造るのが古今よりの原則である。他人様になるべく依存しないということだ。

 

 昔以上にこの「林棲」「林住」は容易である。場所的には道路があって車が入れて電気が使えて水道があれば十分である。昔開発されたいわゆる別荘地が好適地である。

 

 と、こんな記事を書いている時に、一人のというか二人のお客様がお寺に見えた。それで今日の更新が遅くなったわけであるが、このことは明日にでも記事を分けて話そうと思う。相談にも色々あって、ほとんどがこれからどうして生きていったらいいでしょうというご相談だ。迷わずに、商売を勧めた。林の中で棲むのはもうちょっとも、ああちょっとも後で良い。若い人には大いに儲けて頂きたい。

 

 いいですか、どんなところに住んでいても力強く生きていけるんですよ。このことを今日は申し上げて寝ることにします。お休みなさい。

山河、顧みて恥じることない足跡を山に残したろうか?

 五木ひろしの持ち歌の「山河」は、小椋佳作詞、堀内孝雄作曲の名曲だ。

ただ五木さんや堀内さんには悪いが、小椋佳さんの歌い方が好きである。

自分には出来ない、あの力まないで、サーっと歌い上げる感じが、

この歌の持ち味を最大限に引き出してくれる。

 

曲も朗々としていて良いのであるが、

この歌は何といっても詩の深さである。

 

随分前(2,000年)に紅白の大トリで五木ひろしが歌ったときには

大袈裟な歌だなあとしか思わなかったし、正直、感動もなかった。

 

ところが最近YouTubeで小椋佳の山河を何気に観て、

なんと感動してしまったのである。

未だに「顧みて・・・」の部分が耳から離れない。

 

人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み
人は皆 山河を信じ 和み 愛す

そこに 生命をつなぎ 生命を刻む
そして 終いには 山河に還る

顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと 美しいかと

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は 心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と 流れる時と
人は誰れもが 山河を宿す

ふと想う 悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きする かげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと

顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと 美しいかと

人は皆、大地に生れ、ではなく「山河」に生れとある。

人生を山と河に擬えて作られたこの詩のテーマはむろん山河だ。

この場合の山や河って何だろう?

人それぞれに受け止めればいいのだが、

俺は単純に「山」が住んでいる場所や人々、社会であると思ったし

これも単純に「河」が時の流れや時間であると思った。

 

小椋佳はいわゆるシンガーソングライターであるが

詩人であり哲学者のようでもある。

とくにこの歌や愛燦燦などは哲学者の言葉のようだ。

 

還暦を過ぎて、この歌を聴くと

若い時のそれとは全く違う方向から観ていることに気づく。

自分の人生を振り返って、悔いのない人生であったか?

今死んでも悔やまないか?

 

そう自問自答した時

やり残していることの多さに悔しくて眠れなかった。

 

もう一度やってみよう。

友と、くしゃくしゃの嬉し涙を流し合いたい。

 

この山に己の行いを残して、

この河を思い切り抱きしめたい。

そして文字通りの山河に帰っていこう。

土や水そして風になろう。

 

今はもう眼には見えない愛する人々が

ふと笑った気がした。

新しいお寺を建てることの意義

新寺建立を発願した。

 

古いお寺も昔は新寺であった。

当り前だが誰も解っていない。

古いお寺を有難がってお参りする人は多い。

信心ではなく、これを信仰という。

 

こう言うと決まって反論が押し寄せる。

いわく信仰のどこが悪いのか?

信心と信仰の違いはあるのか?

誰も悪いと言っていないし

言葉の上っ面では全く同じだろう。

 

私は、現代における一番の大きな問題は

弱いものが今後ますます困窮するであろう現実にあると思っている。

私も身体障害者の一人であるが四級であるため比較的軽い。

自分のことは大抵一人でできるし殆んど困ることがない。

 

ところが私以上に障害のある人も当然多くおられる訳で

多くの方の場合、近い将来に多大な不安を抱えておられる。

配偶者や子供さんなどの親族がおられるのならまだしも、

生活の面倒を見て下さる方が近くにおられない方もいる。

 

私は誰が上でも下でもない対等な共同生活によって、

何でも言い合える共同体を求めてきた。

それが本来の寺の使命であると思ってきた。

しかしそれは理想論という言葉で悉く斥けられてきた。

 

誰に遠慮も気兼ねもしないでおられる寺は造れないものか?

文字通りの現在の駆け込み寺は造れないのであろうか?

自分の家と心から思える安住の地はないのであろうか?

仲間同士で助け合うのは本当に綺麗事なんだろうか?

 

理想でもなく綺麗事でもない。

誰もやらないんなら俺がやる。

宗教とか宗旨とか、そんなレベルは捨ててしまう。

来るものは拒まず、去るものは追わず。

 

困った時に役に立たない寺など寺ではないと思っている。

昔、金のないやつは俺のところに来い。

俺もないけど心配するな、という唄があった。

その心境である。

 

今はジャングルのように荒れた山林を整備し

小さな観音堂を建立する。

そのまわりにバラック同然の住まいを造る。

大きなものは建てられないが、小さなものなら簡単である。

 

志をもった仲間が集まる。

この際、宗教宗旨を問わない。

どだいそんなものに拘泥するほど仏教はやわではない。

なにもかも受け入れる。

 

新しいお寺を建てたいと今ほど思ったことはない。

強く限りなく強い動機がある。

非難轟々であったが、あらためてもう一度申し上げたい。

 

「一緒に住もうや」

ヒトの噂ほどええ加減なものはない!ええ加減にせえ!

ということで、今日は呆れ果てました。


ったくもう、考えられません。


アホ過ぎて語る気にもなりませんが、


それでもいい加減にせんならんので


ミサイルを一つだけブチかまします。



ええですか?



当事者に確認もせんで適当な話を作って吹聴するなよ。


卑怯者!


貴様は、何様だよ。


「お互い様」なんて抜かすなよ。


笑いごっちゃねえんだよテメエ。


まるでどこかの代議士の暴言のようですが、

私には所属政党や肩書きも無いので、ハッキリと思いのたけをブチかましております。お気の小さい方は直ちにこのページから離れてください。

良い子の皆さんは部屋を明るくして引き続きご覧ください。


何の話か部外者は訳が分からんと思います。


分かる人が見たら分かる訳で、当たり前ですが、これなら誹謗中傷、信用毀損、名誉棄損にならない訳で、巧妙に抽象的に批判を行なって、溜飲を下げている訳です。


多くの善人は他愛もないことに殊更自己否定して自虐的に落ち込んでいきます。反省の名の下に、怒りを否定して小さく萎縮する。


怒らないことがブームのようになって、へ〜みたいな人間が増えています。若いもんがそうやって凹んで腐ってゴマスリみたいな奴ばっかが大手を振って歩いている。


それでも男か?いや人間か?


自分を責めることはない。


怒りを力一杯抱きしめろ。



若い時には、いや、年寄りでも

自分が正しいと思ったことは堂々と言えばいいじゃないか。

弱いものイジメはいかんが

頑固ジジイやカミナリ親父が居なくなって

影でブチブチ抜かす人間ばっかになって

このジジイ頭に来ております。



怒りは文句なしにイカンという教えもあるようだが、そういう御仁が怒っているとしか思えん訳です。


文句があるならコメント入れてみろ!

こちとら、トラです。

堂々と勝負してみろ。

水芭蕉に癒される傷心

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小雨に煙る水芭蕉の中を

傘にもたれながら歩いた


ここは三田の永澤寺(ようたくじ)

水芭蕉?花菖蒲園で有名であるとの

ガイドさんの説明のとおり

今が見頃、味わいごろだった


株分けをしてもせいぜい三年が限度とか

徐々に色褪せていくという

花が小さくなっていくという


ミズバショウの花が咲いてる

懐かしいフレーズが口をついてくる

夏がくーれば想い出すー

はるかな尾瀬、遠い空


あれから何年経ったのだろうか

遠い昔のようであり

ついこないだのような気もする


顔の表情は穏やかであるのに

心の外側は小さな傷だらけ

血が滲んでいる


やはり別れはつらい

いたいけのない子供達に

さよならを告げるのは


今はすっかり年老いた昔の子供達

そのはしゃいだバス旅行の終える頃

昔の少女がポツリとつぶやいた

「たった一年でこんなに変わるとは」


今は亡き人、

入院した人、

田舎を出て行った人、

そして去ろうとしている者。


みんな子供だった頃

映画のシーンのように

一瞬、全員が子供に変身した。





独立自由が合言葉

本当に道を求めるのであれば

誰かに依存するのではなくして

独立を目指すことだ。


本当に道を歩むのであれば

誰かの制約から静かに離れて

自由に生きることだ。


教えを知った以上

あとはやるかやらないかだけ

実行するしかない。


それで、誰から教えを聞くかだが

コップの水を全部移し替えたとしても

いずれはコップの中の水はなくなる

目減りもあれば蒸発もある

床にこぼしてしまうこともあるだろう。


原典に触れることだ。

たった一行の文字を見て

あとはひたすら修行し

大阿羅漢となった者もいる。


米搗きで悟った人もいれば

草むしりで覚った人もいる

人真似ではない

自分の道を切り開いて行く


それが独立自由。

ひとり歩むこと。

まずは独り

そして

共に歩む人がいれば

それは

完全ということ

普通はあり得ない。


ナンテ言ったらいいかな、この感動。

今までも、ブログみてますよーとか、応援しちゃいますよーとか。

本音で、うれしいに尽きる励ましはあったのですが、

なかなかコメントまで寄せて下さる方はいなくて

 

それで、ちょっとメゲたり、やめようかなと思ったり

わかってもらえないよなーこんなこと、なあーんて考えたり

間違ってるんかなーと、正直、振り返ったり

 

でも、でもですね。

やっぱ、みんな一緒なんすよ。

 

求めてるんすよ、ホンモノを。

 

昨日、小林麻央さんが亡くなりましたよね。

理屈抜きに泣いちゃった。

 

母を想い、姉を想い、妻を想い、娘を想い、孫娘を思った時

他人事でなかった。

 

人の死は、生きている人への勇気のメッセージだ。

 

どんなことがあっても、決して負けるな。

生きているだけで、それは修行であり、生きることそのものだ。

そこに何の理屈もない。命。

 

使命というのは命を使うということ。

 

生きながら死ぬことはない。

死ぬほど生きろ。

 

そうした究極のブッダの声が聞こえる。

 

友と、昨日の夜話した。

 

友は、ただ黙って聞いてくれた。

友とはいつまでも対等の立場でいたい。

どちらが上とか先とか右とか重いということはない。

彼には彼の心がある。

 

それでいいのだ。

おれの思う通りに思ってくれなくていいのだ。

小賢しい見解など、あっさり捨てればい。

あるのは、ひとりひとりの「信念」であり「志」なのだ。

 

でも、見解の相違をそのままに

一緒にあたらしい道を目指すっていうのはどうだろう。

それは、全力で応援したい。

全力も大したことはないのだが、

それでも精一杯応援したい。

 

昨日、ビックリしたことは、こんなブログでも

応援してやろうじゃないかという方がおられたことだ。

うれしくて、うれしくて、なかなか眠れなかった。

ブログをやり続けていてこんな嬉しいことはない。

 

いつか、リアルでお会いすることもあるだろう。

縁とはそうしたものだ。

なんて幸せなんだろう。

この感動は、言い尽くせない。

 

「スーパー坐禅」のことにも言及されていた。

あれまでもご覧になっていたとは、恐れ入ります。

教外別伝とか何とか難しい言い回しはともかく

坐禅とか冥想というのは、ええ線いっていますよ。

 

ずいぶんとベンキョウされているんだろうなあ~。

じじいに言わせれば、こだわることは何もないんですが、

それはともかく

やっぱ、黙って坐ることかなあ。

 

とにかく、全部捨てて、捨てられないなら、その捨てるも捨てて

自分なりの生き方っちゅうか何チュウカ、

自由に生きることをオススメします。

そのためには、死にものぐるいの修行も、いいんじゃないすか?

 

そうやって、他人事ではなくて、自分事にすること。

ちょっと偉そうですが、みんな対等です。

だれに遠慮することもありません。

思う存分、生きてみな。

 

マイクロサンガとは何か?

このところ、もう一つのウエブサイト「マイクロサンガ」のことを考えています。

マイクロサンガは固有名詞です。

今年の10月には三年目に入りますが、今になって本来の使命を強く意識しております。

 

友と二人で始めた宗教団体?

 

そうかもしれません。

 

そうではないともいえます。

何しろ、思想や宗教、哲学、考え方なんでもいいんですが、これが争いの元ではないかと思っているのは確かです。多様性を認めながら、排他的である社会そして人々。

 

寛容であること。そんなことは誰でも解っていますが果たして……。

 

今後の生き方を問う、一大テーマとなりそうです。

新天地を求めて

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旅の途中で見つけた地面は、軽トラ一台がようやく駐車できるぐらいの広さでした。

水道と電気は何とかなりそうですが、何しろ凄い傾斜地で雑木だらけのジャングルです。

無いよりマシの何とやら。

固定資産税は免税じゃないでしょうか。

ちなみに地目は山林。

果たして地縁はあるでしょか?

油圧ジャッキが欲しかった訳

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 写真の2t油圧ジャッキをある方から頂きました。亡くなったご主人が購入されたものだそうですが、新品です。これが欲しかった理由は二つです。一つはもちろんタイヤ交換や万一の脱輪などに重宝することです。今一つは、これも友からの受け売りですが、軽トラを地面に固定する車の輪止めに用いるのです。この輪止めやスタンドをしておくだけで、ちょっとした風による横揺れを著しく軽減できるというのです。

 車を止めておくだけならともかく、軽トラ坐禅堂(僧堂)で坐禅したり仮眠したり猫と昼寝したりするには、やはり安定が必要ではないかというワケです。この中で食事をすることもあるのです。また長い旅の最中にはどのような危機的な状況が訪れるやもしれません。そんな時にこの油圧ジャッキとチェーンブロックは本領を発揮するでしょう。まあ何事もなければいいのですが、やはり必需品かと思います。

 昨日も私を支えてくれた方お二人からあたたかい励ましのお電話をいただきました。こんな私にも応援してくださっている方々がたくさんおられます。ありがたいことです。油圧ジャッキのようにしっかり支えてくださりありがとうございました。「災い転じて福となす」ありがたい言葉を噛み締めながら、今日は越前市のホームセンターまで買い物に出かけます。ついでにちょっと猫を見てきます。猫寺で有名な御誕生寺です。

 

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