軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

障害の重い女の子の「命の言葉」

国学院大学の柴田保之さんの研究室の

ウェブサイトから引用させていただきます。

そのページの中に

「子どもたちのことばの広場」があります。

 

重い障害のために

自由に言葉を話すことができない子どもたちが

胸に秘めた思いを

文字盤やパソコンあるいは手を添えてもらっての筆談で

それぞれの思いを

表現されています。

 

中でも「八巻緩名さん」の言葉は

わたしの胸を強く揺さぶりました。

 

10歳になった緩名(かんな)さんが

2004年9月24日にパソコンで残した言葉は

 

かんなかあさんがすきめいわくばかり

 

かんなさんは、

明くる2005年2月20日

突然帰らぬ人となりました。

 

わたしは、

しばらく何も考えられませんでした。

ただ、

子供のように泣いていました。

 

先立たれる悲しみは

子どもに先立たれる辛さは

子どもが親を思う気持ちは

 

理屈なんかどうでもいいのです。

 

先亡精霊供養(せんもうしょうれいくよう)。

 

お盆には、

先に亡くなった人々の霊が

家族のもとに帰ってくると信じられています。

 

残された者は

迎え火を焚いて

精霊たちを迎えます。

生前と同じように

お膳を差し上げ

好きだった食べ物や飲み物、果物を供えます。

これを供養と言います。

 

そして

15日の夜には

送り火を焚いて

見送るのです。

 

一年に

一度だけ

帰ってくると信じる。

 

これが迷信でしょうか?

これは信仰でしょうか?

 

優しさと悲しみ。

これを慈悲と言います。

 

どうか私の分まで

長生きしてね。

元気でいてね。

 

残された者への

これほど強い励ましがあるでしょうか。

 

亡き人の冥福を祈っている、

その時に

亡き人もまた

幸せを祈っているのです。

 

命の言葉です。

 

かんな、かあさんがすき、めいわくばかり。

 

 

時代を超えてホンモノにだけ引き継がれるココロ

久しぶりに「てんびんの詩」を観た。

イエローハット創業者ローヤルの鍵山秀三郎さん監修の

確か三部作の映画であったように思う。

 

あらためて観ると

これは近江商人に学ぶ営業の基本といった

小難しい話ではなくて

どんな仕事にも生活にも生き方にも

つながる

大切な人としての道の基本であろう。

 

劇中の少年の

馬鹿さ加減は

誰にでも根付いている本音であり

正直な、あまりにも純粋な、

そして嘘のない、子供の邪気そのものだ。

 

子供は決して無邪気ではない。

ホンモノを知らないだけである。

ニセモノを本物と勘違いしているのである。

邪気と言ってしまっていいほど

邪なものだ。

 

だが、

そんな子供を見ながら

大人も同じだと思う。

本人が気づいていないだけ。

子供のまま、大人になってしまった、子どもたち。

 

何を隠そう。

私だって、まだまだ子供である。

その証拠に

この「てんびんの詩」を観て

何年かぶりに観て

まだ

泣けて泣けて仕方がないのである。

 

 

今日中にどうしても言って置かなければならないこと

明日は明日の風が吹くなどという軽い話ではありません。

これでも一応は坊主の端くれなので

今朝はブッダの話をします。

 

ブッダは誰に対しても

「友よ」と呼ばれました。

 

ただそれだけです。

それだけですが、

これは誰にでも出来ることではありません。

 

何が言いたいか、おわかりですか?

 

たった百年も経てば

ほぼ全員が死んでいます。

今、生きている人々が死んでいる。

 

さすれば、知り合った人みーんな

友です。

共に生れ、共に死んでいく仲間です。

 

ちょっとした見解の相異なんて

とるに足らないこと。

 

最近、やっと人様のブログを見るようになりました。

いままで、ほとんど人様のは見ておらんかったっちゅうことです。

読んでみて、なるほど、大したものだと。

 

やはり自分の考えとは違うなあと思いつつも

こういう考え方も感じ方も捉え方も

あるのだと感心しきり。

 

で、なぜ今日中なのか?

 

一昨日、右肩をブトに刺されました。

キンカン塗ってあるのですが

左腕に比べて150%の太さになっています。

 

観音堂の建設現場の周囲は

ほとんど原野と化しています。

マムシに噛まれて死ぬこともあるでしょう。

 

今日も友(先輩)からダンプを借りて

友(同い年)と共に現場に向かいます。

 

現地に向かうというより現場に向かうのであります。

いつ死んでも不思議ではありません。

縁起でもあります。

 

縁りて起る。

この世は神が造り給うたのかどうか知りませんが

この世に生れ死んでいくのは

全てが縁であります。

何かしらの関係性が無ければ

生じることはありません。

 

出会った人すべてが縁ある人々。

すべての人は友。

 

自分の好ましい人だけが友ではありません。

好ましくない人も友。

 

ですが、ではありますが、

やはり

これだけは今日中に言っておきます。

 

友よ、ありがとう。

 

涙もろくていけねぇ、耄碌したのかなぁ。

最近やたらと涙もろくなってきた。

すっかり耄碌じいさんになっちまったか?

これを「涙もうろく」と呼ぶ。

 

そんなダジャレをこいてる場合じゃない。

今晩も奈良の方にお住まいの方と話していた。

 

「観音堂、いつ出来るの?」

 

やっとジャングルの伐採と草刈りが終わって

その枝やら草やらを処分しようという段階だっちゅうに

基礎工事にも着手してないのに

ちと待ってくれんかいっちゅう話です。

 

「いっしょに住もうや」と言うたもんですから

その口は嘘に出来んので

その段取りでこちとら必死こいていますが

必死のパッチで汗ダクダクになっておりますが

 

そんな直ぐには完成しませんから。

なにしろセルフビルドで寄付金だけで建てる段取りですから

いちおう10月には上棟式を予定していますが、

予定は未定でしばしば変更あり?かもしれませんから

何としてでも棟だけは上げたいと思っていますから

 

ちょっと待ってね。

 

でも

嬉しかった。

 

ぐっと来るよね。

みんな、和尚のこと「好きだよ」って

 

泣かせてくれるじゃないか。

ありがてーじゃないか。

 

こんな俺にも不安なフアンがいてくれる。

不安そうに

心配そうに

大丈夫?って声かけてきてくれる。

 

まえの寺の総代長さんなんか

毎日、LINEで大量のスタンプを送ってくださる。

 

ありがたいねぇ。

有り難しって書くんだよね。

有り難いって。

 

またグッと胸にこみ上げるもんがある。

チキショウ。

ありがてー。

 

待ってろよ。

昔の子供ら。

 

 

 

NHKのど自慢で、おばちゃんの歌に泣いてしまった。

なぜか泣けてしまった。

 

特段にうまいわけではなかったが見事合格された。

 

足柄山の金太郎で有名な南足柄市が舞台の今日のNHKのど自慢。

 

最後の方で、美空ひばりの「みだれ髪」。

 

星野哲郎さんの作詞もいいが、

この歌は何と言っても曲。

船村徹さんは天才だね。

 

なんで涙腺が緩んだのか?

自分でもわからない。

歳のせいか?

はたまた疲れか?

 

なにしろ泣けてきた。

ふつう「おばちゃん」や「おっちゃん」が合格するのは稀だ。

とにかく泣けた。

 

理由が不明なため

YouTubeで「みだれ髪」を検索。

大御所ひばりさんはもちろん凄いんだが、

藤圭子(宇多田ヒカルの母)さんの動画をみて……。

 

理由がわかった。

潜在意識に残っていた。

在りし日のショックが。

 

この曲が偶然かかっていた。

あのとき、あの場所で

あんな風に、何気に別れて。

そうとしか思えない。

いや、そうに違いない。

 

やだねー、未練だねー。

 

 

観音さまの正体とは?

観音信仰というのが

日本でも千年以上前からありまして

西国三十三ヶ所観音霊場巡拝など

現在でもお参りする人々が絶えません。

 

その御利益(ごりやく)というのがスーパーで

何でも来い、なのであります。

 

病気平癒。

家内安全。

家庭円満。

商売繁盛。

念願成就。

交通安全。

災障消除。

息災延命。

諸縁吉祥。

萬事如意。

上げだしたらキリがないほどの現世利益。

 

これで済まないのです。

極楽往生。

冥利冥福。

死んでからも幸福が続くというのです。

 

これは信仰するっきゃないということで

過去の人々はこぞって信仰しました。

否、現在も理屈抜きでお参りしております。

 

たとえば浅草の観音さん。

大須観音、津観音いわゆる三大観音。

 

世界でも飛び抜けていて

チベット仏教のダライ・ラマ法王は

観音菩薩の生まれ変りと信じられています。

 

信じようが信じまいが信じられているという事実。

この事実に注目なのです。

そんじょそこらの新興宗教など目じゃないのです。

やたらと人気のある仏菩薩なのです。

 

何故か?

 

それをいくらウィキペディアで「観音菩薩」と検索し

数多あるサイトで検索して調べようが

日本中のお寺に聞きに回ったとしても

答えは見つかりません。

 

なぜか?

 

「幽霊の正体みたり枯すすき」

自分の正体もわからないものが、

観音様の正体を見れるはずもなく

わかるはずもありません、が、

 

「観れば自に在る菩薩かな」

観音様は観世音菩薩とも観自在菩薩とも呼ばれます。

呼んでも誰も助けに来てくれないときに

観音様の御名を唱えれば立ち所に

状況が一変するというのです。

 

見えるまま、聞こえるまま、あるがままを

人は見ていませんし、聞いていません。

偏った見解、こだわった考え、とらわれた思いで見ています。

 

ところが、

まっすぐに、

こだわらずに、

何にもとらわれないで

あるがままに観た瞬間に、

(これが観音様の正体なのですが)

状況がいっぺんに変わります。

 

これが信心であります。

自分のこころを信じることです。

 

信じられないなら

何も信じられないなら

信じないということに

こだわっている証拠。

 

小さな子どもが

「かんのんさま」と言えないで

「ののさま」といいながら

モミジのような手を合せています。

 

なあ~んにも考えていません。

そういうまっさらな気持ち。

これが観音様。

あらゆる姿でこの世に現れるといいます。

あらゆる機会に

あらゆる場面で

あらゆる状況で

無心になること。

 

それは

あるがままをみること。

ありのままにみること。

 

余分なところが何もないこと。

余計なことを決して考えないこと。

 

観音の

正体観たり

慈しみ。

 

大慈観音堂。

 

www.itukusimi.com

待たされて食べるカツカレーの味

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先週の日曜日のお昼は

近くのマキノ高原サラサ温泉で

カツカレーを注文したのだが

キャンプなどの家族連れで大賑わいで、、、


都合三十分も待つことになった。


こういう待つ体験は

久しぶりで

実は

何となく嬉しかった。


子供が小さいうちは

親は子供に連れられて

どこへでも連れて行ってもらえる。


子供が中学生になると途端に

父親は何処へも連れて行ってもらえない。

そういう寂しさを味わうのだ。


あれから二十年。


私にとって旅は憧れになった。


だが、一人旅を続けてきて

ここにきて

この歳になって

一人に慣れてきて


やっと気づいたことは

あの日々はもう二度と帰ってこない、

大切な幸せの日々であったことだ。


何を今更と

若い人々は思うだろう。

私もそうだった。

みんな一緒じゃないかと


でも本当は違った。


諸縁吉祥(しょえんきちじょう)。

それぞれに、

それぞれの幸せがある。


見渡す限りの大勢の家族連れの

それぞれに

それぞれの幸せがありますように。


幸せを

幸せと気づく幸せ。



今日は、今は亡き宗福寺の先住和尚様の

三回忌が営まれた。

ご遺族と再会して

和尚さんの話で盛り上がった。


私と同い年の和尚さんであった。


人に優しく自分に厳しい

信念の人であられた。


私と真逆で

家族をとても大事にされていた。


諸縁吉祥。

電柱が立っているからって?

敷地の入り口の道路際に電柱が立っている。

電気は直ぐに引けるものと思っていた。


ところがどっこい

確かに高圧線と電話の線はあるが

低圧の電灯線がない。


電気工事店のベテラン社長に見てもらった。

いわく、仮設電気の引き込みには

地上5メートルの電柱が必要だ。

本設には申請してから三ヶ月はかかる、とのこと。


近くの電柱には低圧の三本線が来ている。

そこから別荘に電灯線が引き込まれている。


地上5メートルの仮設電柱を立てるには

地下埋設分を含めて6メートルの電柱がいるらしい。

引込み線が隣地の地上を通る場合は

その隣地地主の承諾が必要だとか。


結局、メインツリーの

クルミの木の枝を切って

それに5メートルの電柱を結びつけて

そこから仮設電気の分電盤を付けるという段取りになった。


どうも話がややこしい。

造成当時から四十年近くも経った別荘地。

こんな問題は折り込み済みであったが

いざとなると

お金と手間がかかるばかりだ。


そもそも論だが

誰も家など建てようと考えない場所に

だからこそ値打ちがあるのだが、

やり甲斐も、生きがいも

そこには生じるのだが、


いざとなると

大変である。


いざ、やり出してみると

面倒である。


ただ、楽しみが

夢が

友が

私を支えてくれている。


有り難い。


まさに、有り難し。

まさに、憂いなし。


大慈観音堂の設計図が出来た

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平面図兼配置図と立面図ができました。

これをもとに壁量計算と言って

床面積つまり平面的な大きさに見合う

壁の長さがあるかどうか?

また、見付け面積つまり立面的な広さに応じた壁の長さを検討します。


平面というのは、建物全体の重さが地震によって縦や横に揺れることから、規模に応じた耐力壁の長さが確保されているか確認するモノサシになるわけです。


立面というのは、建物が横から風を受けた時に倒れたり歪んだりしないかどうかのモノサシになります。


こういった構造的な検討は、建築基準法などの法令で決められていますから、定型の式に当てはめればすぐに判別できます。


しかしもっと重要なことは、弱い部分が無いかということです。バランスが最も重要なポイントです。マクロにもミクロにも総合的に検討して、見た目よりも丈夫さ、安定さ、排水、通気、換気、断熱、耐朽性などなど、考慮すべきところは沢山あります。


基本的な設計ができたからといって、これで終わりではありません。来月からいよいよ基礎工事に着手するのですが、工事の完成まで設計は続きます。否、工事完成後にはじめて設計の良し悪しが問われます。


今回は割とオーソドックスな枠組壁工法を採用しました。三間ぶっ放しの空間を木造で作るためにはトラスは欠かせません。これは意外と大変そうですが、セルフビルドにはピッタリかなと思います。


間取りはこれ以上ないほど簡略化しました。


何しろこの小規模な建物を細かく区切ることはないでしょう。


さしずめワンルームテンプルですね。


大間(だいま)一間の観音堂。


大事な大事な


大慈観音堂。


敷地の草刈り出来ました

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 昨日は朝から理事長さんと二人で現場の草刈りを行いました。

理事長の大活躍で、私のナイロン刃の草刈り機などは、ほとんどままごとでした。

一枚刃の草刈り機の威力とチェーンソーの底力に舌をまきました。

 

うへ~。。。

 

結果はごらんのとおり。

鬱蒼として、ほとんとジャングルと化していた地面は

クルミの木を一本残して他はほとんど切り倒しました。

観音堂の敷地は、いかにもそれらしく

後背地の杉林を背景に、山水が横に流れる水路を横目に

クルミの木をメインツリーに

今流行の田舎暮らしそのままに

静かで爽やかな高原の佇まいをみせております。

 

真ん中に残った伐採した草木の処分が当面の課題です。

その後に、地鎮式を経て、基礎工事に着手いたします。

周囲の土地は荒れ放題ですから

そのギャップでよく見えるかもしれません。

なにしろクルミの木陰で涼しく休憩できました。

 

近くには一キロあまりでマキノ高原のキャンプ場や温泉があります。

冬には家族連れのスキー客で賑わうここは、

プレ夏休みでしょうか、子供連れのお客さんが多かったです。

またメタセコイヤの並木も人気の的。

結構いいところなんですよ。

 

昨日は朝の坐禅会から始まって、ジャングルの伐採除草、

そして夜は本寺幸松寺の役員会でした。

大慈観音堂のPRもちゃっかりさせて頂きました。

電気と水道はあるの?

えー、電柱があります。山水も、捻れば出る水道もあります。

 

明日、工事用仮設電気の引き込みを申し込みます。

電気が無ければ、ほとんど無理です。

山の麓とはいえ、ここは元々別荘地で開発されたところです。

市街地はおろか集落からも離れ、

誰も気づかない、「基地」のようなものです。

 

昔の少年は、すっかり昔に戻ってはしゃいでおります。

 

しかし、身体は昔には戻れませんでした。

今日一日は身体に疲れが残っておりました。

でも夕方には、あるご相談のおかげで

元気回復。

 

わたしはやはり人と話しているとパワーが出ます。

いつかこの観音堂で「お話」できる日を

夢見ています。

 

少年の午後、プレ夏休み。

 

 

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