軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

新しいお寺を建てることの意義

新寺建立を発願した。

 

古いお寺も昔は新寺であった。

当り前だが誰も解っていない。

古いお寺を有難がってお参りする人は多い。

信心ではなく、これを信仰という。

 

こう言うと決まって反論が押し寄せる。

いわく信仰のどこが悪いのか?

信心と信仰の違いはあるのか?

誰も悪いと言っていないし

言葉の上っ面では全く同じだろう。

 

私は、現代における一番の大きな問題は

弱いものが今後ますます困窮するであろう現実にあると思っている。

私も身体障害者の一人であるが四級であるため比較的軽い。

自分のことは大抵一人でできるし殆んど困ることがない。

 

ところが私以上に障害のある人も当然多くおられる訳で

多くの方の場合、近い将来に多大な不安を抱えておられる。

配偶者や子供さんなどの親族がおられるのならまだしも、

生活の面倒を見て下さる方が近くにおられない方もいる。

 

私は誰が上でも下でもない対等な共同生活によって、

何でも言い合える共同体を求めてきた。

それが本来の寺の使命であると思ってきた。

しかしそれは理想論という言葉で悉く斥けられてきた。

 

誰に遠慮も気兼ねもしないでおられる寺は造れないものか?

文字通りの現在の駆け込み寺は造れないのであろうか?

自分の家と心から思える安住の地はないのであろうか?

仲間同士で助け合うのは本当に綺麗事なんだろうか?

 

理想でもなく綺麗事でもない。

誰もやらないんなら俺がやる。

宗教とか宗旨とか、そんなレベルは捨ててしまう。

来るものは拒まず、去るものは追わず。

 

困った時に役に立たない寺など寺ではないと思っている。

昔、金のないやつは俺のところに来い。

俺もないけど心配するな、という唄があった。

その心境である。

 

今はジャングルのように荒れた山林を整備し

小さな観音堂を建立する。

そのまわりにバラック同然の住まいを造る。

大きなものは建てられないが、小さなものなら簡単である。

 

志をもった仲間が集まる。

この際、宗教宗旨を問わない。

どだいそんなものに拘泥するほど仏教はやわではない。

なにもかも受け入れる。

 

新しいお寺を建てたいと今ほど思ったことはない。

強く限りなく強い動機がある。

非難轟々であったが、あらためてもう一度申し上げたい。

 

「一緒に住もうや」

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