軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

基礎工事の段取りと手配

工事は段取り八分と昔から言います。

この「段取り」という言葉、

大変意味のある言葉だと思います。

今現在の状況と近い将来を予測して

目指す完成状態を明確に

鮮明なものにして

その状態に最も効率的な段階を設定するものです。

階段状に、ステップを設けるのが

段取りの意味かと思います。


手配というのは文字通り

人手や材料、機械や道具を準備することです。

この段取りと手配を上手にやらないと

いわゆる「段取りが悪い」となるわけです。


今日はお葬式の後

初七日の法要を勤めてから

一路、観音堂建設現場に向かいます。

地区の自治会の

草刈り作業があるとのことです。


新人ですから

初顔合わせのようなもので

よろしくお願いします、と

ご挨拶するだけにしておきます。


もちろん草刈機持参で

あとは黙々と道路側の

草を刈るだけです。


懇親会は、寸志だけお渡しして

さっさと寺に戻る予定です。


その理由は

ここには書けません。



物々交換と得意技交換の経済的価値

なるべく安く

観音堂の建設費を抑えるために

通称「いい」なる手法を使っています。


これは人様が要らないものを頂く。

その代わりに余っているものを差し上げる。

これは物々交換みたいなもので

金銭という代価を使わない手です。


世の中で代償の要らないものはありません。

いいというのは、作業交換のことです。

結いからきた言葉ですが

共同作業によってお互い様を実現するという

昔からの知恵です。


私は一級土木施工管理技士でもありますので

遣り方や測量とか工事の段取りは出来ます。

ところがダンプやユンボを持っているわけではないので

これらを持っている方の協力を取り付けることは

今回の建設工事で不可欠なことです。


特にダンプはこれから完成に至るまで

なくてはならない必需品ですし

ユンボのオペもできませんから

とある友人の協力は

大変ありがたい存在です。


そこで、今、友人宅とそのお隣との境界擁壁を拵えています。

観音堂に優先して

理事長と共に友人宅に通っています。


友人と申しましたが

少し年上の先輩で檀家さんで

義兄弟の契りを交わした方で

三年前には寺の裏の土工事を

手伝って頂きました。

その時にも代わりに

友人宅の仕事をしました。


あれから季節は巡って

様々なことがありましたが

再び旧交を温めているのです。


共に流した汗は

永遠に縁というものになって

消えることがありません。

今日も土嚢を積みます。


協力を実行します。

理屈抜きです。

夏に汗をかくことは最高の健康法

半月以上もブログを書きませんでした。

毎年、8月は超がつくほど忙しい。

毎日が汗、汗、汗。

 

子供の頃に、父親から

夏に汗をかかないでいると

身体に溜まった毒素が抜けないから

早く病気になって長生きできない、

なんてことを聴きました。

 

この年になって

ようやくその意味がわかりました。

一年というのは短いようで長いものです。

また、長いようで短いものです。

身体に毒素が溜まるという表現は

至極、現実的であります。

 

田舎のお年寄りの多くは

90歳になっても元気です。

なぜか?

このクソアツイ中でも

平気で草刈りをし

平気で山や畑や田んぼに出かけます。

 

エアコンを一日中つけて

涼しい生活を送っているキリギリスさんたちは

そんなことやっていると

熱中症で倒れちまうよと心配するのですが

 

もともとマイペースですから

十分お茶を飲み

涼んで

また麦わら帽子に長袖、長ズボンを履いて

トコトコと働いています。

 

はたらくことが好きなんですね。

そうとしか思えません。

次はあれして、これして。

 

まったく悩みというものがない。

クダランことはどうでもいい。

そうした、日常をおくっています。

だから元気です。

いわゆる寝たきりにならない。

ピンコロが最高と思っているのです。

 

健康とは、

健やか、康らかに生きること。

そして健康に死んでいくことでしょう。

 

おかげさまで

この夏もいっぱい汗をかきました。

お盆が終わってすぐに

8月17日に大慈観音堂の起工式(地鎮祭)を行いました。

早速、基礎工事に取り掛かっています。

 

人生の秋を迎えて

ようやく念願の観音堂建立に向けて第一歩を踏み出しました。

 

夏に汗をかいたアリは

キリギリスさんたちとも仲良く話します。

おたがいの人生を尊重しつつ

何が良いとか悪いとか

それは実はどうでもいいことですが、

 

一年中の毒素を

夏の汗が

一気に流してくれるという真実は

お伝えだけしておきましょう。

 

老婆心ながら。

軽トラ和尚、寺を建てる。

我ながら、大それたことを考えたものです。

そもそも新寺建立などということは、

修行を重ねて、徳の高いお坊さんが

これを慕う人々の篤い誠に支えられて

一念発起してかかるものです。


それをほんの思いつきのように

大した修行も積んでいない者が

協力を得られる徳も無いのに

大見得を切り

大風呂敷を広げて

大慈の幡を立てるなどと宣い

本気で寺を建てると意気込んでいます。


しかるべき人がこれを聞いたら

笑うしかないでしょう。


本人は、いたって本気なので

誰がなんと言おうと

どうしようもなく

臆面もなく

今日も知り合いに

片っ端から

肝心な勧進を行なっております。


ただ建てる規模ですが

三間に四間の12坪程度で

大間一間で

ワンルームマンションならぬ

ワンルームテンプルですから

それほど目くじらを立てられる心配はありません。


ふつうの反応は、

「あ、そう」で終わり。


世の中こんなものです。

あっさりしたものです。

「おのれほど熱くならない冷や奴」

ネギと生姜の薬味を添えて

生醤油を少し落として

どうですか?って勧めても


「それで?」


二の句が継げませんでした。


「ありがとうございました」


これでめげてるようでは

男が廃る。


次行ってみよー、でした。





近未来における望ましい「お寺」の在り方

 江戸時代の檀家(寺檀)制度は、

江戸幕府の民衆支配制度であったことから

明治政府はこれを廃仏毀釈によって解体しようと試みたが

民衆に根付いた宗派帰属意識や先祖供養の慣習は

現在に至るまでもその根を強くおろしている。

 

 この檀家制度が今日までよく保たれたのは

こうした事由以外に、勤勉な檀信徒と清貧な住職僧侶の

相互信頼関係が成り立っていたことに依るところ大であろう。

 

 ところが、ここに来てようやく

檀家制度が崩れ始めようとしている。

否、今までよくもったものだと感心せざるを得ない。

その主な原因は言うまでもない。

時代の流れといえばそれまでかもしれないが、それ以上に

檀信徒と寺院の関係性の希薄にある。

 

 では「お寺」は必要ないのか?というと

まだそこまでは行っていない。

なぜなら、そこに境内地や寺院建物があるからである。

では、老朽化していく建物を維持するのはともかく

たとえば、いざ「建て直す」となれば

果たしてどれだけの檀信徒が協力できるであろうか。

 

 …と、ありきたりの情勢をここに書いても

誰も何の興味も示さないであろう。

書いている自分がツマラナイからだ。

 

 今から私たちがやろうとしていることは、

既存の伝統仏教の手法とは全く違うやり方だ。

今流行のお坊さん派遣でもサラサラない。

どだい仏教であれ他の宗教であれ

押し付けられて、

いったい誰が好ましいと思うであろうか?

 

 宗教団体というのは

押し付けがましいのである。

ご先祖さんを人質にされているような、

歴史的建造物・文化財を見世物にしているような、

とまでは流石に言わないが

人々の救済ということを

本気で考えているのであろうか?

 

 今朝、友から

夏休みに入って給食がない状況で

食べ盛りの子供が

一日にアイスクリーム一本しか食べてないという話を聴いて

泣くに泣けなかった。

 

 怒りが先に立ってしまう。

贅沢三昧で、高級車に乗って、偉そうにしている誰かさんは

本当に「〇〇」しているのであろうか?

 

 人のことはどうでもいい。

近い将来に

本来の「お寺」の活動が

どういうものであるかを表明したい。

 

 基本、毎日お寺にいること。

どこかに勤めにいかなければならない状況は理解できるが

住職というのは住(とどま)り護持する役職である。

本来は住持職なのだ。

住んでいない、

いつも居ないようでは、

……

問題外。

 

そこから何だってできる。

人が集まるお寺は作れる。

 

やるか、やらないか、だけである。

 

 

 

「慈しみ」を英訳すると?

言葉は、特に母国語は、

言葉の持つニュアンスというか

語感が身体の芯まで染みていまして

日本語で「慈しみ」ときますと

直ぐに「慈しみ深い」とか

慈悲とか慈母とか慈愛とか

優しいイメージで捉えることが多いと思います。


では、英語圏でごく普通にこの「慈しみ」を

何と訳しているかと言えば

それは"LOVE"です。

キリスト教が根底にあるからでしょうか。


慈しみは、サンスクリットでmaitrī

パーリ語ではmettāといいますが

相手の幸福を望む心の意であるとされます。

平たく言えば「優しい気持ち」です。


今日は友から便りが届きました。

ここでは具体的に書けませんが

イジメを受けているというのです。

幼少時に両親を亡くした友は、

大変お世話になった方の法要の席で

心無い仕打ちにじっと耐えていました。

ところが、ついに堪忍袋の緒が切れて

切り言葉を吐いてしまったと

嘆くのでありました。


その場に居合わせていませんから

客観的には何も申し上げられませんが

一つ間違いのない事実は

友が辛い気持ちであるということです。

自身を嘆きつつも

腹立たしく、怒っているのです。

そして暗い気持ちになっています。


イジメを受ける側にも責任があると

よく思ったり言われたりしますが、

とんでもありません。

苛めるのは理屈抜きに悪いことです。


過酷な長時間労働、

陰湿な校内イジメ、

生まれ育ちによる差別。

ガキじゃあるまいし

いつまで子供のようなことをやっているんでしょうか?


情けない。


そんな会社や

仲間からは

さっさと離れなさい。

イジメは犯罪ですよ、ハッキリ。


そういって慰めましたが

やり切れない思いでいっぱいです。


今日、最強の友人に

ダンマパダ(法句経)の一節を

MCの方に朗読して戴くよう頼みました。

これを音楽用CDに焼いて

送ろうと思います。


観音様ならどうされるであろうと

考えに考えていましたが

ふとしたきっかけで

思い当たりました。


私もこの一節で心打たれた者の一人です。

これをそのまま伝えようと

何も加えることなく

何も解説することなく


ただ真実の言葉を

ブッダの言葉を

そのまま届けたいと思いました。


慈しみのことばを。






してほしいことを頼む方法

相手の都合を慮り

お願いすればいいものを

遠慮して言わないでいると

ストレスがたまる。

 

相手に断られることを

気にしないというのは

難しいようで

何も難しくない。

 

坊さんの修行で

托鉢というのがある。

乞食行(こつじきぎょう)というぐらい

ものを戴くだけであるが

 

これはやってみればわかるが

実に意外だ。

頂けそうとか

ここはダメだろうとか

人間感覚が及ばない。

実に意外なのである。

 

今日はバックホー(ユンボ)の

オペレーターが上手い先輩の家の

隣との境界について立会いをした。

長年の経験を生かして

無償奉仕で測量した。

 

境界擁壁を設置するためなんだが

昔取った杵柄というやつで

何となく決まるところに決まるコツというものがある。

 

当事者双方が合意して円満解決。

これをやらしてもらうことで

観音堂の基礎工事も手伝ってもらうという魂胆である。

 

ギブアンドテイクとかいうが

日本でも「結い」といって

お互いに助け合う伝統がある。

 

相手が都合悪ければ断る。

それを気にしない。

こちらの都合をお願いする。

これを遠慮しない。

 

今日は自分が出来ることで

誰かの役に立つことを

改めて確認した。

 

まさにお互い様である。

世間はすべからく

お互い様だと思う。

 

お陰様である。

 

慈しみドットコム(itukusimi.com)

www.itukusimi.com

上記のドメインを前に取っていたので

このはてなブログに使いました。

なかなかスムーズに設定できなかったのは

単にドメイン情報の切り替えが出来ていなかっただけでした。

 

ローマ字表記そのままの"itukusimi"

文字通り、

大慈観音堂のメインサイトにしてまいります。

 

カテゴリーなんかもきちんとしなければ

とは思っていますが

毎日の更新だけで精一杯でして

今日で7月も終わり

ということは

明日から8月なので

暑中見舞いの限界が近づいていて

ちょっと遅れると

残暑見舞いになるザンショ。

 

ということで、

今日は

ブログに「独自ドメイン」なるものを

つけたお知らせでありました。

 

慈しみ、

どっとこむ。

 

大慈観音堂でした。

 

笑いの悟りと涙の修行

「涙は修行、笑いは悟り」と

誰かが言っていたが、

そんな馬鹿な話はない。

 

もちろん泣いているようでは

まだまだなのかもしれないが、

笑って居れれば

それに越したことはないが。

 

それでも人間、一生、修行である。

毎日が修行だと信じていれば

どんなに辛いことでも乗り越えられる。

 

なぜこんなことを急に言い出したか?

 

娘一家と久しぶりにファミレスへ食事に行った。

孫娘を笑わすのは造作ない。

ちょっとおどけた格好をするだけで

かんたんに無邪気に笑ってくれる。

娘も私に似て、ゲラ子である。

旦那さんも無口だがよく笑う。

 

笑っている家族を見ていて

自分が一番幸せだと思った。

こんなに有り難いことはない。

 

この笑いを新しい小さな寺で実現したい。

誰が上でも下でもない

皆が寺を我が家と心から思えるようにしたい。

誰に遠慮気兼ねのない

気さくで笑いの絶えない寺にしたい。

 

そう思って

笑いを目指すべきだと断然思った。

別に「お笑い芸人」を目指すのではない。

泣きたくなるようなことがあっても

泣きながら笑い合える仲間をつくりたいのだ。

 

笑いという悟りを目指す。

涙の日々だからこそ

 

笑うのだ。

泣きながら笑うのだ。

これが本当の修行なのだ。

 

そしてこの寺を

世界一の山寺にしてみせる。

もう誰に遠慮することはないのだ。

 

 

そのように

一人から二人、

二人から三人、四人へと

人が増えていく。

 

笑いの出る寺。

大慈観音堂の夢が

だんだん大きくなっていく。

だんだん広まっていく。

 

笑いが止まらない。

 

 

真夏の焚き火だ、焚き火だ、枯れ木焚き♪

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ご覧のとおり、といっても

わからん人には何のこっちゃさっぱりわからんだろうけど

えー、ここが

大慈観音堂の建設予定地であります。

 

ど真ん中に、

檀家総代さんから頂いたドラム缶。

これ、下に焚き口というか通気孔というか

ちょうどいい大きさで四角く切ってあるので

すこぶるよく燃えます。

 

このクソアツイのに焚き火かいっ?ってワケで

汗満開でした。

毛穴が全開で汗腺ゆるみっぱなしでした。

飲めば飲むほどに汗の出る道理で

今日は天然水2リットルいっちゃいました。

 

ところが、ありがたいことに

この写真では、右奥下に

清水がこんこんと湧き出ているのです。

山水、沢水、清水なんでもいいんですが

とにかく、やたら冷たい水です。

 

ここに何とか天然水のボトルを漬けておくと

クーラーボックスが必要ないことに気づきました。

鉄管?ビールもいいですね。

 

それに今日はついに仮設電気が引き込まれました。

電気が使えるんですよ、電気が。

こんな山奥でも

文明生活ができます。

ありがたいことです。

 

それに、

内緒ですが、

水道代がただなんです。

バルブはあってもメーター器のない水道。

別に盗水ではありません。

山水をタンクに集めて配水しているので

簡易水道よりも単純な共同水道です。

 

カルキなんか入る余地がありません。

カエルは入るかもしれませんが**

ちょっと神経質な人は住めませんね。

住みませんってか?

 

冗談はよしこさん(古)ですが、

これで一通り敷地の基盤整備は完了です。

いわゆるライフラインですね。

 

ところで仮設トイレは

ただいま検討中です。

検討中は近くの(といっても遠いが)

コンビニか道の駅のお世話になります。

買うか、レンタルリースか?

これが問題だ(またまた古)。

 

真夏の果実なら「サザン」

真夏の焚き火じゃ「サンザン」です。

広葉樹の生木は燃えにくいっすね。

そしていったん火が付いたら

なかなか消えません。

炭にするはずです。

 

ドラム缶の下に

小さな炭がいっぱい出来ておりました。

 

炭だけに

いったん火が付いたら

燃えます。

 

燃え尽きるまで。

 

 

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